奄美ロータリークラブの歴史

History

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奄美ロータリークラブ 記念事業

奄美ロータリークラブがこれまで行なってきた記念事業の一覧です。
※ 下部にマップがあります。

1.さくらの園

奄美ロータリークラブ 記念事業 さくらの園

2.島育ちの碑

奄美ロータリークラブ 記念事業 島育ちの碑

赤崎公園入口に、1963年(S39)にロータリーが協力した島育ちの碑があります。

3.新港植栽

奄美ロータリークラブ 記念事業 新港植栽

1971年(S46)、名瀬新港にロータリー園を造りました。

4.ふれ愛パーク 奄美の森(壁画)

奄美ロータリークラブ 記念事業 ふれいあパーク

5.市民憲章の碑

1980年(S55)、奄美ロータリークラブ創立20周年記念事業として、名瀬市⺠憲章の碑を建立しました。現在はロータリー平和公園へ移設しました。

2010年(H22)、創立50周年記念事業で奄美市⺠憲章の碑を建立。現在行っている奄美市役所の庁舎新築にともなう移転が予定されています。 

6.おがみ山 ロータリーの森

奄美ロータリークラブ 記念事業 おがみ山ロータリーの森

1981年(S56)、おがみ山にロータリーの森を造りました。
現在はロータリー事業の石碑が残っています。

7.鹿児島県立大島病院 創立100周年記念碑

奄美ロータリークラブ 記念事業 県立大島県病院創立100周年

2000年(H12)、創立40周年記念事業の県立大島県病院創立100周年を記念して、石碑とロータリーの森を造りました。
H26年の救命救急センターの増設で石碑が移動され、ロータリーの森は残っていません。

8.ロータリー公園

奄美ロータリークラブ 記念事業 ロータリー公園

1981年(S56)にロータリー75周年事業として、 ロータリー公園を整備しました。

9.ビッキャ石

奄美ロータリークラブ ビッキャ石 1 3

1970年(S45)、奄美ロータリークラブ創立10周年記念時業として、ビッキャ石を建立。安全祈願碑として今も市民に愛されています。

10.本茶トンネル 植樹

本茶トンネルは1984年(S59年)に開通し、両側の入り口に松の記念植樹を行なっていました。植え替えも行いましたが、その松は枯れていました。名瀬側入口左側の旧道路に、大規模の車輪梅移植も行いました。
また、奄美群島日本復帰30周年記念として⾞輪梅並⽊道事業も行なっています。

記念事業マップ

記念事業をまとめたマップです。
ロータリーマークをクリックすると、詳細が表示されます。

名瀬ロータリークラブ創立へ向けた秘話

奄美ロータリークラブ認定証
奄美ロータリークラブの認証状
創立 1961年(S36)1月10日
認証 同年4月24日

名瀬ロータリークラブの創設の仕掛け人は、親クラブの鹿児島ロータリークラブのメンバーの上原 憲光氏です。笠利町大笠利出身で鹿児島市で薬局を数か所経営し、成功を納め、復帰前の1952年(S27)に、名瀬市で奄美薬品(薬の卸問屋)を設立しています。
その頃より同じ医業で、笠利町出身の朝沼 勇雄氏と縁があり、後のチャーターメンバーの永⽥ 清成⽒と喜⼊ 直治⽒も奄美薬品の設立に関係し、交際が始まっています。
なお、朝沼氏は、同級生の長崎大学熱帯医学講座の片峰 大助教授より、後述の鹿児島大学医学部教授の佐藤 八郎氏を紹介され、鹿児島大学熱帯医学研究所設立に協力しています。 

朝沼氏は1976年(S21)に復員し、琉球政府の奄美中央病院院長として勤務。1950年(S25)に開業しています。その間、抗生物質等の医薬品の不足を補ため那覇によく出張していたそうで、奄美薬品の設立は願っても無いことでした。開業してからリネン調達で関係した田中 智氏とは若手の知り合いでした。 

田中氏の弁によると、1954年(S29)前後に、朝沼氏より上原 憲光氏を紹介されたそうです。上原氏が頻回に名瀬へ来島していたので、名瀬にロータリークラブがあればメイクアップが出来るとの理由でした。 

この頃、里嘉 栄則氏と大野 重隆氏を中心に、自然に発生した『誠交クラブ』で、田中氏はロータリークラブのことを話しています。『誠交クラブ』からロータリーのメンバーになった方々もいましたが、同クラブはその後、自然消滅しました。 

一方、鹿児島クラブでも時を同じくして、メンバーでパスト会長の鹿児島大学学長の福田 得志氏と高 義光氏(赤木名出身で鹿児島織物設立)から、名瀬にロータリークラブ創設の話があり、鹿児島クラブで話題に上がっていました。なお、福田氏とメンバーの鹿児島大学医学部教授の佐藤 八郎氏は、1960年(S35)4月に、名瀬市に鹿児島大学付属施設として熱帯医学研究所を創立しています。 

1955年(S30)に、上原氏が大野氏と田中氏を伴い上鹿し、鹿児島クラブで名瀬にロータリークラブ設立の願望を話しています。その後も大野氏と田中氏は何度か上鹿し、 鹿児島クラブの面々を巻き込んで行きました。鹿児島クラブでは、高氏と大津倉庫会社の大津 篤造氏(後の地区ガバナー)が、特に応援されたそうです。勿論、前述の福田氏と佐藤氏にも応援していただきました。 

その結果、鹿児島クラブでパスト会長の福田氏(昭和29年会長)を特別代表に、名瀬クラブ創設の準備が始まりました。同じくして福田氏は、鹿児島大学熱帯医学研究所設立で名瀬との縁が深まりました。

鹿児島クラブ事務局長の佐々木 申吉氏が、名瀬のリーダーの大野氏や田中氏(特に若手で奔走)との連絡係でした。 

1958年(S33)頃、国際ロータリーに鹿児島クラブが親クラブとして名瀬クラブ創設で、370地区久保田ガバナー(長崎)を通して申請。書類は鹿児島クラブを通して大野氏と田中氏に届き、米軍占領時代の通訳の森山氏の助けを借りて書類作成し、里 嘉栄則氏が最終チェックを行い、鹿児島クラブへ提出し、地区へ提出。最後は増永茂己ガバナー(熊本)が最終チェックを行ったそうです。 

最終書類は1960年(S35)10月1日で、翌年の1月10日に、鹿児島クラブに承認の国際電話があり、4月24日に正式通達されました。 

当時、国際ロータリーは奄美地区はまだ占領地として認識しており、書類の差し戻しも多く、当初370地区ではないと判断。国際ロータリー直轄の予定だったそうですが、認証時の1月には第358地区(東京地区)所属でした。また職業分類にも厳しく、何度も書類の往復もあったそうです。 

1961年(S36)9月に国際大会が東京で催され、国際ロータリーの役員と370地区松本 兼次郎ガバナーと370地区パストガバナーの増永 茂己氏、358地区中村 米平ガバナーとで協議し、1962年(S37)7月には370地区へ編入されました。同年4月1〜3日に、沖縄クラブのチャーターナイトがあり、358地区中村ガバナーが帰路名瀬クラブを訪問しています。東京や那覇と比べて田舎であることにびっくりし、よくぞロータリークラブを作ってくれたと感激されたそうです。歓迎会は料亭マドロスとのことです。 その月の22日に名瀬クラブのチャーターナイト(伝達式)が県立大島高校講堂であり、 特別代表の福田氏と、370地区松本ガバナー、鹿児島クラブ会長の町田 秀美氏(大島出身、後の地区ガバナー)が出席しています。 

里氏は創立後体調を崩し亡くなられ、群民葬で送られています。
鹿児島クラブ(1952年10月10日創立)の初代会長は勝田 信鹿児島銀行頭取で、 鹿児島銀行も1953年(S28)12月25日に琉球銀行より業務継承し、大島支店としています。名瀬ロータリークラブ創立時は二代目支店長の仁礼 嗣男氏(名瀬出身)で、誠交会員でした。会員増強や例会場で非常な協力を仰いでいます。

大野氏と田中氏のご尽力なくして、名瀬ロータリークラブの誕生はなかったのかもしれません。

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奄美ロータリークラブバナー1

名瀬ロータリークラブ

1961年(S36)10月25日制作
大島紬
植田織物工場にて、図案から製作。泥染で奄美の風物を再現

奄美ロータリークラブバナー2

奄美ロータリークラブ

2006年(H18)3月30日
名称変更で製作

奄美ロータリークラブバナー3

奄美ロータリークラブ

2020年(R2)2月10日
久保井 博彦会員より本場奄美大島紬の反物を寄贈していただき製作